訪ねてみたい旧街道 9
昔から道があるところには、人と文化の交流が育まれてきました。太平洋新国土軸を構成する18府県には、今も数多くの旧街道が残り、交流の歴史を今に伝えてくれています。今回は、陸と海の道:撫養街道です。
撫養街道(徳島県・・・兵庫県・・・和歌山県)
古くは7世紀ごろから、紀伊、淡路、阿波、讃岐、伊予、土佐の6ヶ国の国府と都をつなぐ官道として使われていた南海道。大和から紀ノ川を下り、和歌山から淡路に渡って、鳴門海峡を越えて撫養(現在の徳島県鳴門市)に上陸するこの陸海の道は、当時、四国と畿内を結ぶ最短距離のルートでした。この中で、紀伊から淡路島、徳島の吉野川沿いに池田へ至る道が「撫養街道」と呼ばれています。
辞書によると、「撫養」とは「いたわり養う」という意味で、四国八十八ヶ所の玄関口としてまさにふさわしい地名。司馬遼太郎は著書「街道をゆく・阿波紀行」の中で、高野山の営業マンともいうべき高野聖が京や大坂の人々に四国巡礼を勧める際、最も利便性が良かったのが撫養から入るルートだったので、八十八ヶ所の一番札所・霊山寺は鳴門市にあるのでは、と推測しています。
7世紀にすでにお遍路さんたちが行き交い、平安時代には紀貫之が「土佐日記」をしたため、江戸時代には松尾芭蕉も通ったと言われる撫養街道。今は本州と四国を結ぶ高速バスの停留所「高速鳴門」が撫養の町周辺です。
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