国づくり偉人伝
太平洋新国土軸地域の17府県には、社会の基盤づくりに尽力してきた郷土の偉人が数多くいます。
歴史をひもとき、私たちが住む地域をつくり上げてきた人々をご紹介します。
川に名を残す普請奉行───治水とまちづくりに命をかけた
足 立 重 信
愛媛県の県庁所在地・松山市を流れる1級河川・重信川。この川は昔、伊予川と呼ばれ、暴れ川として恐れられていた。それが、重信川と呼ばれるようになった背景には、1人の普請奉行の偉業がある。美濃の国に生まれ、松山城主・加藤嘉明のもとで土木治水を指揮監督した重臣・足立重信である。
加藤嘉明が伊予松前城を領したのは文禄4年(1595年)。移ってきた城のすぐ南には伊予川の河口があった。毎年雨の時期には堤防がない両岸から洪水があふれ、流域一帯の田畑や家屋が押し流される惨状を目にして、ただちに城の拡張と伊予川の治水を重信に命じたとされている。重信が精密な現地踏査の上で下した判断は、大規模な伊予川の築堤によって流路を定めることであった。約8キロにわたって流路を改め、堤防を築くという大工事は、当時の人々が想像も出来なかった手段で進められた。特に、松前城の手前で屈曲する伊予川の流れを抑えるために考案された水制は、重信と加藤嘉明が入念に心を配り、施工したと言われている。
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重信川上流の和やかな流れ。
豊かな自然が残り、人々の生活と密着した川である。 |
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重信川の河口干潟には、多くの渡り鳥が姿を見せる。
バードウォッチングのポイントとして愛されている |
重信が指揮監督した築堤と補強工事は、その後、300年にわたって松前城主によって引き継がれ、洪水のたびに荒れ果てていた田畑はいつしか豊かな米づくりの地になった。地域の人々が目を見張る新たな技術で伊予川を治めた重信の功績は長くたたえられ、人々は伊予川を重信川と呼ぶようになったと伝えられている。司馬遼太郎は、著書「街道をゆく〜南伊予・西土佐の道〜」の中で重信川についてこう記している。「日本の河川で人名がついているのは、この川だけでないか。(中略)領内の重要な河川に家臣の名をつけるなど、よっぽどのことであったろうと思われる。」
伊予川改修後、足立重信には次の命が下る。手狭となった松前城の移転である。重信は現在の松山市勝山(城山)を候補としてあげたが、この辺りには湯山川(石手川)が流れ込み、堅強な城を築くには川筋の変更が必要とされた。ここで、重信は数十メートルという大きな岩盤を切り崩し、湯山川の向きを南に替えて伊予川と合流させる案を提示する。氾濫を防ぎ、城下町として栄えるまちづくりにはこの難工事が欠かせないという判断のもとである。
この工事は難渋を極め、人夫も重信も途方に暮れる日々が続いたという。しかし、「石屑1升米1升」(岩を1升切り崩せば、米1升の賃金を支払う)と人夫を励まし、鎌なげ工法、防水竹林といった治水の知恵で新流路の開設にこぎ着け、結果として石手川流域の水田は3,000ヘクタールに拡張され、産出米は10万石にも及び、大きな恩恵をもたらしたと言われている。
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重信が最期まで完成を心待ちにしていた松山城。城からは市内が一望できる。現在は、昭和44年以来となる、天守など77棟の大規模な保存修理工事が行われている。(平成18年秋 完了予定) |
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夏には水遊びをする子どもたちでにぎわう赤坂泉。
足立重信による事業は、安全と安心をもたらし、経済的にも精神的にも潤いをもたらした。 |
続いて松山城の築城工事に取りかかった重信は、まちづくりに住民の力を結集させるという手腕を発揮する。近隣の農民を総動員したリレー方式により、瓦運搬はわずか1日で終わらせ、魚売りの行商を行う「売魚婦(おたた)」を荷物と小砂の運搬に活用することで効率よく築城が進められていったという。
自ら指揮を執り、時には新技術を披露し、時には地域の将来像を語りながら住民の熱意を盛り上げて進められた足立重信の普請事業。現在の道後平野に広がる豊かな田園、穏やかな重信川と石手川の流れ、そして時を経ても愛されつづける伊予のシンボル・松山城にその偉業の面影を見ることができる。
城主・加藤嘉明は、足立重信の臨終に際し、最期に望むことはないかと質した。重信の答えは、「願わくば、なきがらをお城の見えるところに…」。普請奉行として最後の仕事となった城の完成を願いつつ世を去った重信の墓所を城主・加藤嘉明は自ら探し、城北の来迎寺に手厚く葬った。重信の墓からは松山の町並みが一望でき、絶えることなく供えられた花に松山のまちづくりの基礎を築いた重信への感謝の心が表れている。
人心を動かし、新たな技術を伝え、安全・安心で繁栄するまちづくりに生涯をかけた足立重信。重信川流域の小学校では、総合学習の時間に彼の偉業を学ぶ時間を設けている。現在の生活の基盤をつくってくれた先人に感謝し、その熱い思いを未来に伝えていく大切な授業が今日も行われている。
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来迎寺の裏手に眠る足立重信。
寺前には、地元の有志・伊予史談会による「功績の碑」が松山城に向かって建っている。 |
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