BUNGAKU SANPO

「細雪」の舞台を歩く
芦屋川の風景写真

■谷崎潤一郎と芦屋
 「こいさん、頼むわ−」。谷崎潤一郎の小説「細雪」は、優美な船場ことば(大阪ことば)ではじまります。昭和10年代、船場生まれの美しい四姉妹を描いた作品は、その住まいがあったとされる兵庫県芦屋市がメイン舞台となっています。
 谷崎潤一郎と芦屋との縁は、関東大震災に始まります。箱根で執筆中だった谷崎は大震災に遭い、小学校時代の親友が住んでいた芦屋へと逃れてきます。この頃、谷崎はのちに最愛の人となる松子夫人と出会い、東京から関西に定住することになります。谷崎潤一郎は、芦屋市をはじめ、現在の神戸市、西宮市など“阪神間”と呼ばれる地域で約24年を過ごしますが、この間10回以上の引越しをしています。小説の中で描写されている風景のひとこまを、今も芦屋川や夙川沿いで見つけることができます。
細雪の碑の写真 細雪の碑


■転居と文豪の足あと
 数回の転居を繰り返したこともあって、阪神間では至る所に谷崎潤一郎の面影が残されています。芦屋市内を流れる芦屋川沿いに、細雪の碑を見つけました。字は松子夫人によるものです。芦屋川と平行して東を流れる宮川の近くには、谷崎が松子夫人とともに移り住んだ旧居が「富田砕花旧宅」として保存されています。
 宮川を下って行くと、「芦屋市谷崎潤一郎記念館」があります。ここでは、彼の人柄を紹介する資料や、作品が展示されています。記念館では、市民ボランティアによる朗読会のほか、シニア向け文学講座が開催されており、市民のみなさんが集う文化施設となっています。
 宮川から芦屋川を越えて神戸市に入ると、住吉川があります。ここにも「旧谷崎潤一郎邸」が残っていました。「倚松庵(いしょうあん)」と呼ばれ、公開されているこの住居は、谷崎が関西で最も長い7年間を過ごしたところです。ここで谷崎は松子とその妹たち、娘とともに暮らしはじめます。ここでの生活が「細雪」を生み出し、その後の彼の文学に大きな影響をもたらしたと言われています。「倚松庵」という庵名は「松に寄りかかっている家」を意味するそうです。なるほど、彼の転居先には、必ずと言っていいほど川沿いに松や桜並木がありました。
谷崎潤一郎記念館の写真 谷崎潤一郎記念館


■文化を将来に伝える
 地震をきっかけに東京から阪神間に移り住んだ谷崎は、この地域が大地震に見舞われるとは思ってもみなかったでしょう。阪神・淡路大震災は、文豪の面影をとどめた貴重な邸宅を全壊させるなどの影響を与えました。しかし、自治体や地域住民のみなさんの努力のおかげで、再び、訪れた者が谷崎潤一郎の世界を堪能できるように、建物の整備やパンフレットによるPRが行われています。震災2年後から、全壊した建物を復元しようと、住民のみなさんが市域を越えて動き出したそうです。
 「谷崎潤一郎が住んでいたなんて、芦屋の誇りやからね。地域の文化を震災なんかで滅ぼすわけにはいかんよね。子供たちにもきちんと伝えていくのが大人の仕事やから。」帰りのタクシーの運転手さんが笑顔で語ってくださいました。



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