林芙美子「放浪記」の舞台を訪ねて
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屋島から見たサンポート高松の夜景 |
●全国に古里を持つ林芙美子●
貧しい中でひたむきに生きる女性を主人公にした作品を描いてきた林芙美子。彼女の実体験を元にした作品と伝えられるのが「放浪記」です。幼いときから父母と行商で各地を歩き回った女性が、さまざまな苦しみに耐えながら力強く生きていていく様を描いた作品です。
「私は宿命的に放浪者である。私は古里を持たない」。作品の冒頭には、そのように書かれていますが、実際には彼女の生まれ故郷は下関(門司との説もあります)。彼女自身、鹿児島、長崎、尾道、徳島など各地を巡る時代を過ごしたようですが、林芙美子が訪れたゆかりの地には記念館や文学碑が建てられ、彼女の古里としての証が残されています。
高松港のせとしるべ(赤灯台)
●高松の港●
各地に足跡を残した林芙美子は、高松にも訪れています。「放浪記」には、「郷愁をおびた土佐節を聞いていると、高松のあの港が恋しくなってきた。私の思い出に何の汚れもない四国の古里よ。やっぱり帰りたいと思う…」という一節があります。
彼女が帰りたくてたまらなかった高松の港は、江戸時代に上方から金比羅さんへ向かう船で賑わった歴史ある港です。
現在は「サンポート高松」として整備が進められ、韓国や中国などアジアの港とつながる国際港へと変貌しています。港の周りは、高松城のある玉藻公園や噴水公園など、市民の憩いの場として親しまれる場所となっています。
港のそばにある玉藻公園
●母に会える場所●
全国各地を放浪した林芙美子に、「やっぱり帰りたい」と言わせた四国・高松。彼女は「放浪記」を発表する前に、当時両親が住んでいた高松市を訪れたといいます。親に会いたいという想いが高松への望郷の念に重なっていたのかもしれません。約3週間ほどを高松で過ごした彼女は、両親の愛情を満喫したことでしょう。
時代は移り、戦争が始まると、林芙美子は新聞社の特派員として中国や東南アジアに出向き、従軍作家として活躍します。実は、この頃、高松の生んだ文学者・菊池寛も同じく特派員として派遣されているそうです。終戦後は数多くの反戦作品を残した、というところも二人の共通点です。高松を愛した二人の文人は、どこかで会い、心を通わせていたのかもしれません。
地上30階のシンボルタワー
●林芙美子にとっての海●
「放浪記」の中で何度も描写される海は、場所や時によって穏やかであったり、荒々しいものであったり。主人公は海を見ると、なぜかいつも自分が育った瀬戸内海と比べてしまいます。
自由奔放に、波瀾万丈の人生を送ったように見える林芙美子ですが、心の奧ではいつも安心して帰ることができる古里を探していたのかもしれません。瀬戸内海の穏やかさは、彼女の求める古里そのものだったのかもしれません。
彼女が愛した高松の海には、夕暮れになると自転車や車で人々が集まってきます。学校であったことを話している親子や、学校帰りの女子高生たちが思い思いの場所に座り、のんびりと沈んでゆく夕日を眺めている。そんな豊かな時間が流れている港でした。
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