谷崎潤一郎作「吉野葛」の舞台を訪ねて
吉野町立窪垣内(くぼがいと)小学校の通学路に建立された谷崎潤一郎の文学碑 |
●辿(たど)った道を歩いてみたい●
「吉野葛」は昭和6年に発表された作品です。大和の吉野を題材にした歴史小説を書くために主人公が取材旅行する様子を描きながら、一緒に旅をする友人の生い立ちの物語を挿入し、友人の母への思慕の情を主題とした随筆的小説と言われています。
谷崎潤一郎の辿った道を歩いてみたいと思いました。谷崎は東京から、そして友人は大阪から旅立ち、奈良で出会います。吉野口経由で吉野駅まで鉄道に揺られ、そこから先は吉野川に沿う街道を歩きます。
万葉集にある六田(むだ)の淀から妹背山の方に向かい、上市に入ると、谷崎は「建物の古い割りに、何処の家でも障子の紙が皆新しい」と書いています。
今では障子のお宅はほとんど見られませんが、旧道の町並みには昔の風情が残っています。
六田の淀(柳の渡し)
●「ずくし」●
菜摘(なつみ)の里では、「菜摘邨来由(むららいゆ)」という古文書や静御前ゆかりの初音の鼓についての記述もありますが、それよりも感心したのが「ずくし」だったとしています。「ずくし」とは熟柿(じゅくし)のことで、谷崎は「甘い粘っこい柿の実を貪るように二つまで食べた」といいます。
道沿いの柿の直売所をみると、「ずくし一盛200円」と書いてあります。おばちゃんによると、「今のはハウスもので、露地ものが出るのは11月頃やね」とのことです。
一盛り200円の「ずくし」
●国栖(くず)●
菜摘からさらに吉野川を遡り国栖に着きます。谷崎は国栖の特徴として、紙漉で生活している人が多いことと、「昆布」という姓が多いことをあげています。友人の母の郷である昆布家も紙を作っていました。谷崎はこの昆布家で夜の膳に出された「熊野鯖」が非常に美味であったと記しています。
吉野町の方にうかがうと、今でも三重県の熊野や尾鷲から行商の人が来ているので、土地の人は干物や生の鯖などを買い求めているといいます。
和紙の里「窪垣内」と吉野川
●やや材料負け●
谷崎は、友人を国栖に置いて、例の歴史小説の資料を採訪するために、五、六日の予定で吉野川の源流地方に出かけます。そして、入の波(しおのは)で将来夫人となる娘を連れた友人と再会し、「私の計画した歴史小説は、やや材料負けの形でとうとう書けずにしまった」などと言って小説を終えることになります。
私の吉野紀行も、やや材料負けの形でここで終わらざるを得ませんが、また晩秋に今度は吉野川の源流地方を訪ねてみたいと思います。
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