[太平洋新国土軸国づくり偉人伝]

国づくり偉人伝
太平洋新国土軸地域の17府県には、社会の基盤づくりに尽力してきた郷土の偉人が数多くいます。
歴史をひもとき、私たちが住む地域をつくり上げてきた人々をご紹介します。

薩摩義士
 平 田 靱 負(ひらた ゆきえ)

宝暦治水とは
宝暦3年(1753)12月25日、徳川幕府は薩摩藩に対して、木曽・長良・揖斐の三川のお手伝い普請を命じました。お手伝い普請とは、幕府が外様藩の勢力を弱めるために行ったもので、工事の設計や監督は幕府があたり、工事の実施とそのための資金拠出は命令を受けた藩が行わなければなりませんでした。幕命を受けた薩摩藩では議論沸騰しましたが、家老・平田靱負の説得により、藩が生き延びるためにこの難事業を引き受けることになりました。
宝暦4年(1754)正月に平田靱負を総奉行とするお手伝い普請の一行は鹿児島を発ち、2月に濃尾平野に到着しました。慣れない地で、薩摩藩による宝暦治水工事が始まりました。4月には薩摩藩士に最初の犠牲者が出ました。横柄な幕府吏員や地元の村役とのごたごたなどで、悲憤のあまり割腹を果たしたのでした。また、粗末な仮小屋に、貧しい食事を強いられ、病死も相次ぎました。薩摩藩から宝暦治水に参加した約千名のうち、90名程が割腹または病死で非業の最期を遂げました。
木曽・長良・揖斐川の流れを変えて洪水を防ぐ工事は難航を極めましたが、過酷な条件を乗り越えて工事は完成しました。宝暦5年(1755)5月に幕府の検分を受けた際には、幕臣からも賞賛を受けるほど出来栄えは見事なものでした。
これにより、尾張側を守るための御囲堤がつくられて以降、常に木曽川の洪水を受けてきた美濃・伊勢側の人々は大きな恩恵を受けることになりました。

平田靱負の自刃
幕府の検分後、総奉行・平田靱負は藩主宛の報告書をしたためた翌日、5月25日早朝に美濃・大牧村の役館で自刃しました。享年52歳でした。工事により多くの犠牲者を出したことと、薩摩藩の年間収入の2倍に相当する40万両もの工事費を費やしたことに対して総奉行として責任をとったのでした。辞世の句「住み慣れし 里も今さら 名残りにて 立ちぞわづらふ 美濃の大牧」からは、無念の思いが伝わります。
宝暦治水に参加した人々やその子孫は、工事費の増大により藩財政に膨大な負債をもたらしたことの責任を痛感し、ひっそりと暮らしました。このため、明治中頃までは鹿児島では宝暦治水はほとんど知られていなかったと言われています。

平田靱負像 平田靱負像(鹿児島市の平田公園)
長良川と揖斐川の背割堤に連なる千本松原 長良川と揖斐川の背割堤に連なる千本松原

薩摩のご恩、忘るべからず
しかし、木曽三川沿川の人々は、薩摩の人々の恩を忘れていませんでした。三重県多度村(現桑名市)の豪農・西田喜兵衛は、「薩摩のご恩、忘るべからず」という父祖からの言い伝えを守り、生涯をかけて宝暦治水の顕彰活動に尽力しました。この結果、明治33年(1900)には油島地先の千本松原に「宝暦治水之碑」が建立され、建立式には山県有朋総理大臣、西郷従通内務大臣をはじめ多数の参列者が集まりました。こうした献身的な顕彰活動により、宝暦治水の義没者は「薩摩義士」と呼ばれるようになり、大正5年(1916)には平田靱負に従五位が贈られました。
木曽三川沿川での動きを受けて、鹿児島でも薩摩義士が顕彰されることになりました。大正9年(1920)に城山下に薩摩義士碑が建立されたのを皮切りに、義士祭典の挙行、義士の事績調査、出版活動、木曽川沿線地域との交流事業などが行われ、戦後、鹿児島市は薩摩義士200年記念として、平田靱負宅跡に公園をつくり平田公園と命名するとともに、甲突川に新設した橋を平田橋にするなど顕彰に努めてきました。
また、鹿児島県と岐阜県の市町・小学校・団体等が姉妹提携により交流を進めるとともに、両県教育委員会が小中学校教諭の交換派遣事業を行うなどし、両県は昭和46年に姉妹盟約を締結するに至りました。今日でも、鹿児島市と大垣市、国分市と海津市、郡山町と輪之内町など鹿児島と岐阜との間では、薩摩義士の偉業を機縁として、小中学生、青年、行政職員などが交流を深めています。

平田靱負終焉の地 平田靱負終焉の地(岐阜県養老町の大牧役館跡)
宝暦治水之碑 宝暦治水之碑(岐阜県海津市)

人と人をつなぐ社会資本整備
元鹿児島市長が昭和の初めに、木曽川治水犠牲者墓参団一行に参加して木曽三川沿川地域を訪れた時には、全町村が国旗をかかげ、町村長をはじめ学童、青年、婦人などが道路の両側に整列して、一行を歓迎してくれたそうです。その様は「宮様を迎えるような出迎えぶり」だったといいます。また、一行の代表者が上記の西田喜兵衛氏宅を訪問し玄関先で挨拶しようとすると、床の間十畳敷きの上座に座らされて、どうなることかと思っていると、ご主人が衣服を替え、袴姿で次の間から丁重な挨拶をされたそうです。西田家では代々、薩摩の人には宝暦治水工事の恩に対して丁重な挨拶をしなければならぬと言い伝えられていたとのことです。
250年前に見知らぬ土地で過酷な条件の下、宝暦治水を完成させた薩摩義士は立派です。また、薩摩のご恩を忘るべからずという言い伝えを守り続けている木曽三川沿川の人々も立派です。薩摩義士の話は人と人をつなぎ、人に感謝され続ける社会資本整備のお手本です。後世にまで永く語り継がれることを願って止みません。
 

薩摩義士を祀る治水神社 薩摩義士を祀る治水神社(岐阜県海津市)
千本松原子孫の松が鹿児島で育つ 千本松原子孫の松が鹿児島で育つ(鹿児島市平田靱負公園)



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