走ってみました太平洋新国土軸

愛知〜三重〜奈良〜和歌山


●豊橋●
 豊橋から伊良湖岬に向かう田原街道は、江戸時代には関東方面から伊勢神宮に向かう最短経路として利用されてきました。東海道から分岐する吉田宿には安海熊野神社があります。保延2年(1136)鳥羽上皇の命により建立されたと伝えられる神社です。今では小さな構えとなっていますが、地元ボランティアの方によると、以前は東海道に面しており、敷地も広大だったとのことです。豊橋には伊勢神宮に絹白糸を奉納することに起源を持つ、「御衣祭(おんぞまつり)」も伝えられており、昔から熊野や伊勢とのつながりが強いことを教えています。
安海熊野神社 鳥羽上皇の命で建立された安海熊野神社(豊橋市)
  

●伊勢●
  伊勢湾フェリーで、三島由紀夫の「潮騒」の舞台となった神島を見ながら鳥羽に上陸。伊勢神宮内宮に着いたのはもう日が暮れかけていた頃でした。それでも神宮町のおはらい町やおかげ横丁はたくさんの人が街歩きを楽しんだり、お土産を買ったり楽しんでいました。
 文政13年(1830)のおかげ参りの時には、2ヶ月ほどの間に約400万人が訪れたと言われていますが、昔も今も伊勢は多くの人を惹きつけています。平成25年に20年に一度の式年遷宮を控え、伊勢を訪れる観光客は増えてきています。おはらい町を歩く人が皆にこにこしているのも、伊勢の神様のおかげかも知れません。
おかげ横丁 多くの人で賑わうおかげ横丁(伊勢市)
   ●五條●
  伊勢から和歌山街道を西に向かい、高見山を越えると奈良県東吉野村です。ここには天誅組総裁の吉村寅太郎の墓があります。天誅組は文久3年(1863)倒幕のため五條代官所を襲撃し、代官らを討って五條新政を宣言しました。ところが京都での情勢が一変して賊軍となり、結局各地に敗走することとなり、吉村は東吉野村で終焉を迎えたのでした。五條代官の鈴木源内は温厚な人柄で領民にも慕われていたと言います。天誅組の変は明治維新のさきがけとして「義挙」とも言われますが、代官が気の毒に思えます。
 
五條史跡公園 天誅組の歴史を伝える五條史跡公園(五條市)

●高野山●
   奈良県の吉野川は、和歌山県に入ると紀ノ川となります。有吉佐和子の自伝的小説「紀ノ川」は、主人公と祖母が女人高野と呼ばれる慈尊院詣をするところから始まります。高野山は明治5年(1872)に女人禁制を廃止するまで、女人の立ち入りを禁じていました。讃岐国から来た弘法大師の母も高野山に参詣することが許されず、慈尊院の地に住み、そこで没したと伝えられています。高野山へは「高野七口」と言われるように入り口が七つありましたが、最も利用されたのが慈尊院からの町石道でした。四国八十八ヶ所を巡り終えたお遍路さんは、高野山のお大師様に巡礼の無事を報告して、結願成就となります。このため、今も四国から多くの人々が海を越えて和歌山にやって来ます。
高野山まいりの観光バス 「高野山まいり」と表示された四国の観光バス(和歌山港)
 

前項へ 表紙へ戻る 次項へ