[太平洋新国土軸国づくり偉人伝]

国づくり偉人伝
太平洋新国土軸地域の16府県には、社会の基盤づくりに尽力してきた郷土の偉人が数多くいます。
歴史をひもとき、私たちが住む地域をつくり上げてきた人々をご紹介します。

四国発展の礎を築いた
 大 久 保 ェ 之 丞(おおくぼ じんのじょう)

大久保ェ之丞とは
笑わしゃんすな 百年さきは 財田の山から 川舟出して 月の世界へ 往来する 明治24年(1891)に大久保ェ之丞がつくった都々逸です。
大久保ェ之丞は嘉永2年(1849)に現在の香川県三豊市財田町に生まれ、四国四県をつなぐ四国新道の建設に力を尽くしました。また、徳島県との県境にそびえる阿讃山脈をトンネルで貫き、徳島県を流れる吉野川の水を讃岐平野に導水する必要性を訴えるとともに、四国と本州を結ぶ瀬戸大橋の構想を打ち出しました。
大久保が計画・構想したもののうち、四国新道は明治27年(1894)に、吉野川導水による香川用水は昭和50年(1975)に、そして瀬戸大橋は昭和63年(1988)にそれぞれ完成し、四国の発展に大いに貢献しています。大久保は百年先を見通すことができるスケールの大きな人物だったのです。

道づくりへの思い
大久保が育った財田は、阿讃山脈のふもとに位置しています。隣の徳島県や高知県に行くためには、険しい猪ノ鼻峠を越えていかなければなりませんでした。大久保は幼い頃から、人々が踏みわけ道程度の曲がりくねった道を苦労して峠越えしている様子を見て育ちました。讃岐の発展、四国の発展のためには、人々が容易に往来することができる道をつくることが必要であるとの大久保の思いはこうして形成されました。
大久保家は代々社会奉仕に尽くしてきた財田の大地主であり、大久保も奉仕の精神を受け継ぎました。大久保は23歳で村役場職員となり、26歳頃から地方道の新設・改良を手がけ、15、6kmにも及ぶ道路改良工事の費用のほとんどを大久保家の負担で行ったと言われています。この後、郡役所勤務を経て、県会議員になります。大久保の考えはあまりにも壮大で、人々から「大ほら吹き」と言われることもありましたが、大久保は幼い頃から道路建設の必要性を考え、その後、道路の改良・建設計画を立案、実行して道路建設に関する経験と知識技術を蓄積していたことは注目されなければいけません。大久保は大ほら吹きではなく、常に先を見る目を持った、実行の人だったのです。
   こうして明治17年(1884)、大久保は四国新道について提唱することになります。35歳の時でした。

大久保ェ之丞書の碑 大久保ェ之丞書の碑(香川県三豊市財田町)

思いは通ず
大久保は四国新道への思いを次のように記しています。「我讃岐物産鮮なきに非ず海運不便なるに非ず、土地平坦ならざるに非ざれも独り陸運の便なきに因るなり、茲に於て讃岐の富強を図らんと欲せば、物産を繁殖せしめ、通商の道を易ならしむるにあり、通商の道を昌んにし物産の繁殖を謀らんと欲せば運輸の便で謀るにあり。運輸の便を謀らんと欲せば道路を開さくするにあり。然るに我四国に於ける従来至便の良道なきを如何せん。」四国を発展させるためには、良道がなくてはいけないことを力説しています。
大久保が当初提唱した四国新道は、香川県の丸亀、多度津から琴平、徳島県の池田、高知県の大杉を経て高知に至る路線でした。その後、各県有志との協議などの結果、高知から佐川を経て須崎に至る路線と、佐川から愛媛県の松山・三津浜に至る路線も追加されることになりました。総延長約280kmで、現在の国道32号(高松市〜高知市)、国道33号(高知市〜松山市)の原型となるものです。
この四国新道の計画は当時としてはあまりにも壮大なもので、しかも自動車がまだ日本中に一台もない時代に最大幅員12.6mとという広い道路で、百年先を見据えた大久保の四国新道の計画は当時の人々にはあまりにも規模が大きく、賛否の世論が沸き起こりました。
  しかし大久保が四国各県の協力者を求めて奔走した結果、各県関係者を動かし、明治19年(1886)、高知・徳島・愛媛の3県(香川県が愛媛県から分離されるのは明治20年)において四国新道の起工式が行われました。計画発表から着工まで1年数ヶ月という早さです。
     しかし、工事は始まったものの、まず道路建設により田畑がつぶされることを心配した農民たちの反対に遭いました。大久保は道路ができると人々は道路のそばに家を建てたがるようになり、そうなると道路を広げるにも費用がかかり、工事はますます困難になると言って、根気強く人々を説得するのでした。また、予想外の出費で工事費がかさんだため、大久保は私費で穴埋めをしました。その額は6,500円に上り、このため大久保家は財力を使い果たしたと伝えられています。

四国新道の看板 猪ノ鼻峠に続く旧道にある四国新道の看板
猪ノ鼻トンネル 昭和39年に貫通した猪ノ鼻トンネル

人と人をつなぐ社会資本整備
明治22年(1889)、難工事のため予算以上の資金が必要となり、私財を投入してもまだ資金が不足していました。大久保は香川県知事宛に上申書を提出しました。そこには、公益のため私財を投じてきたが、かつて富裕な家で少しも苦労を知らなかった両親が、今はあばら家に住み、ひたすら事業の成功を祈ってくれているが、両親にこれ以上の苦労をかけられないと記されていました。
自らをかえりみず、四国の発展のために尽くした誠実な人間を天が突き放すわけがありません。この上申書に県知事は感激し、予算以上の工事金が交付されることになりました。大久保が立派なら、その大久保の行いに感激して予算を上積みした県知事も見事です。
四国新道は明治27年(1894)に全線開通しました。大久保はその開通を見ることなく、明治24年(1891)に42歳という働き盛りで亡くなりました。
大久保が亡くなった後、財田に建立された大久保の顕彰碑で一人の男が言います。この人は高知県庁の吏員で、10年ほど前に大久保が四国新道について高知県知事と面談するために県庁を訪れた時のことを思い起こしていたのでした。その時、大久保の身なりが粗末だったので、付き添いの人だけが応接室に通され、大久保は用務員室で待たされることとなりました。そうとは知らずに入ってきた吏員は、大久保のことを罵倒しました。 それを聞き、大久保は自ら名乗り四国新道の必要性を説いたそうです。大久保の顕彰碑で泣いていた人は、高知県庁で失礼な振る舞いをした吏員で、心から自分の碑を詫びているのでした。
今の世の中では、物事を決める際に論理や合理性が重視される風潮が強くあります。このため、道路などの社会資本整備を考える際にも、短期的な効果や効率性が重視されます。しかし、短期的な効果や効率重視のものの見方だけでは、特に地方の発展の基礎となる社会資本整備は進みません。こうした時代だからこそ、大久保ェ之丞のように、遠く先を見越し、大きなスケールで物事を見ることができ、実行することができた人物がいたことを思い起こすことが大事なのではないでしょうか。
 

かつては問屋や宿屋で賑わった猪ノ鼻峠 かつては問屋や宿屋で賑わった猪ノ鼻峠



前項へ 表紙へ戻る 次項へ