文学散歩

菊池寛「恩讐の彼方に」の舞台を訪ねて

大正8年(1919)に書かれた小説「恩讐の彼方に」は、「文壇の大御所」を言われた菊池寛の出世作です。その舞台、大分県中津市本耶馬渓町を訪ねました。

●罪業を償うために●
 「あれは史実ではありません」。耶馬溪風物館の河野さんは、そう言って笑いました。
「恩讐の彼方に」のあらすじはこうなっています。江戸の旗本で働いていた市九郎が、主人の愛妾と通じて主人を殺した後江戸を出奔し、峠で旅人を殺す非道な暮らしをしていましたが、自らの罪業に恐れをなし、出家して「了海」と名乗ります。了海は、全国行脚の旅の最中に、羅漢寺に向かう山国川沿いの難所である「鎖渡し」で馬子が亡くなる事故と遭遇して、難所を掘削する誓願を立て、ついに21年目に洞門を貫通させるという内容です。菊池寛は、罪業を償うために、了海が洞門を掘削したという筋書きを立てています。
青の洞門を背にした禅海和尚の像
青の洞門を背にした禅海和尚の像
  

●30年の歳月をかけた洞門掘削●
  菊池寛は、青の洞門を開削した実在の僧・禅海の史実をモチーフにして作品を作り上げています。
禅海は、「鎖渡し」で通行人が命を落とすのを目撃して安全な道をつくるため、托鉢により資金を集め、享保20年(1735)から自ら鑿(のみ)と槌(つち)をふるい、付近の村人の協力も得て、30年の歳月をかけて明和元年(1764)に全長360mにも及ぶ青の洞門を完成させたと言われています。
現在の洞門は当時とは大きく変わっていますが、旧道には禅海が彫った当時の明かり採り窓や素掘の鑿の跡が残っています。実際に見てみると、鑿と槌で掘るなど、そんな気の遠くなるような仕事をよく続けたものだと思います。
素掘りの洞門(左)と現在の車道(右) 素掘りの洞門(左)と現在の車道(右)
   ●弘法大師を目指して●
  なぜ禅海は30年間も洞門掘削を続けたのでしょうか。菊池寛の筋書きのように罪業を償うという理由でないのなら、どうしてなのだろうと思います。
  前述の河野さんは、個人的な意見と断りながら、話をしてくれました。一つは、青の洞門の位置は羅漢寺への参詣者が通る場所であり、掘削することで多くの人々の役に立つ仕事であるとの理由です。もう一つは、禅海が弘法大師に対して憧れのようなものを抱いていたのではないかというお話しです。禅海は越後の出身で、曹洞宗のお寺で出家して仏道修行のために諸国を遍歴していた僧ですが、宗派を超えて、各地の水利や土木事業に足跡を残した弘法大師を目指して、自らを重ねていたのではないかということでした。
なるほど、これはとても説得性のあるお話でした。説法を説いて人を導くだけではなく、自ら鑿や槌をふるって実践することを通して人々を導くことの大切さを教えているのかもしれません。
羅漢寺 五百羅漢では「すくう」という意味からしゃもじに願いを書く(羅漢寺)

●地元で大切にされる禅海和尚●
   中津市本耶馬渓町で禅海橋、禅海スポーツセンター、禅海太鼓、禅海まつりなど、さまざまなところで「禅海」が使われています。これは、こつこつと世のため人のために尽くした禅海和尚の心と行いを、後世に伝えていこうという地域の人々の思いの表れであろうと思います。
 努力とか忍耐というような言葉が好かれないような風潮が世の中に蔓延していると言われていますが、目標に向かってこつこつと努力することの大切さを改めて学ぶことができました。「パワー禅海」の地域づくりがさらに発展することを願っています。
「パワー禅海」ののぼり 町には「パワー禅海」ののぼりがはためく
 

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